昔々、栃木県足利市には澄み渡った日々があった − 足利市で育ったころに経験したものごとについてエピソード形式で、なるべく文学性をもたせる方向で書いています。特に子供のころに驚いたものごとに焦点を当てています。はっきりと思い出すことができないことについては詳細を創作しています。英語で書いたり日本語で書いたり気ままです。
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[1 様変わり]
[2 裏通りに群衆が]
[3 女の子と相撲を]
[4 鑁阿寺の濠で溺れかけ]
[5 神はトラックの運転手だった]
[6 授業中の笑いと蛮行]
[7 薪割り]
[8 もちつき]
[9 永遠の眠り姫]
[10 甘い椎の実]
[11 郵便局が燃えた]
[12 映画館の話]
[13 はるかな記憶]
[14 はるかな記憶ーその2]
[15 バイパス]
[16 渡良瀬川]
[17 親戚訪問]
[18 路地の行く先]
[19 足利の山々]
[20 青山医院]
[21 床屋]
[22 あたり一面真黄色 ]
[23 秘密 ]
[24 母の病気 ]
[25 出会い ]
[26 マーくん ]
[27 チビのお墓 ]
[28 納豆かまんじゅうか ]
[29 驚いて全力疾走 ]
エピソード1: 様変わり
おや? 我が家の前に郵便局? ノートパソコンに現れた風景に驚いた。グーグルストリートビューが間違いを?
それはないな。
映し出された裏通りには今から50年以上前に父の経営する菓子屋があった。通りの外観は今ではすっかり変っている。
この通り、南銀座通りには昔、両側にきれいな木造の家が立ち並んでいた。どの家の窓も光り輝いていた。店はそういった中、南に面し、銘仙の反物を扱う店2つにはさまれる形で位置していた。銘仙を扱う整理屋が通り沿いに数十あった。しかし、何年も経った今、ほかの家も含めてほとんどが見る限り哀れに劣化していた。解体されたものもある。一部、建てかえられてコンクリート造りになったものもある。
グーグルストリートビューを観ると、郵便局の前に緑の草地になっている空き地がある。店主兼職人の父が5人家族と一緒に暮らした、まさにその家の跡地だった。父の引退後、古くからの借家だった我が家はしばらく空き家のままだったが、ついには取り壊された。更地を含む周りが大規模な駐車場に変わったと聞いていたが、そこまでの変化はなかった。
昔々の当時、我が家での典型的な1日は両親が午前6時前後に同時に起きることから始まった。2人ともすぐに着替え、菓子造りのワークショップとキッチンの共有スペースで働き始めた。夫は2つ並んだ大釜で湯を沸かし、1日の仕事の準備をした。妻は家族の者に朝食を用意した。
ワークショップは敷地のなかの後ろのほうにあり、さらに後ろの方に鶏小屋や納屋、コンクリート造りの雨水タンクがある隣接する狭いスペースがあった。この菓子製造工場から中央の座敷の横にある狭い土間の通路を通って、建物の前方に行くことができた。できたての和菓子がトレーに乗せられ、工場から通路を経由して店内へ移動し、さらにショーケースの中に入れられた。
ショーケースはいくつかあり、また、ガラストップのケースがラック上に並べられていた。さらに壁際の棚に丸くて太っちょのガラス瓶がいくつかあった。そのため人が移動しやすい空間はあまりなかった。
いちばん大きなケースには、羊羹や饅頭、もなか、桃山、大福、どら焼き、カステラ、草餅、柏餅、桜餅、葛桜、かのこ、きみしぐれ、栗饅、ぎゅうひ、ねりきり、すあま、サツマイモ、時におはぎなど、あんこの和菓子のレパートリーが並んだ。ガラスケースにはチョコレートやキャンディー、キャラメル、チューインガム、ゼリーなど。丸いボトルには落花生や辛い柿の種、煎餅、品川巻き、甘納豆などが入れられていた。おっと忘れてはいけない、アイスクリームの冷凍ケースも追加しておく。
当時、あんこの菓子はあまり好みでなかった。実際のところ、丸くて平らな煎餅、特に6枚10円のものが好きだった。煎餅屋の田村さんが定期的に、大きな18リッター缶詰めのそれを自転車で持ち込み、顧客のほか4人兄弟をたいへん幸せにした。
ところで、店というものには誰か店番がいる。店番がいなければ店は閉まる。
我が家では当然ながら父、そして時には母が店番をした。そして素晴しいと言っていいくらいに父母のほかにもう1人、貴重な店番がいた。通りの向かいの絹の反物を扱う店の主人がその人だった。いつも店の前方の座敷の中央に置かれた座布団に座って、ものも言わずこちらを眺めていた。
「うちの店番をしているみたいだね?」と母に訊いた。
「本当だね。近頃は商売繁盛していないからね。時代は変わる」と母が答えた。
母が言うとおり、銘仙のディーラーは多くが暇で何もすることがなく、反物を畳の上に広げては折りたたむということを繰り返していたようだった。
貴重な店番はずっと続いた。
以前は面と向かい合い、良好な関係を互いに維持していた両家だったが、ついにはグーグルの視界から姿を消した。1つは緑の空き地に、もう1つは郵便局になった。神の仕業だった。
エピソード2: 裏通りに群衆が
父の経営する店は長井屋菓子店といい、東京の銀座にちなんで南銀座通りと呼ばれていた裏通りにあった。大通りはいつも交通量が多かったが、この裏通りも特別な行事や大きな出来事があると通り抜けが難しくなった。
この地域、通り3丁目での大きな行事は、神輿が通りを練り歩く夏祭りだった。神輿は神社のミニチュアを担ぎ上げる木枠の台があるために重くなり、力の強い若者がたくさんいなければ運ぶのはむりだった。道端からはバケツの水が放り投げられたり注がれたり、また、ホースから水が振りかけられたりした。
「ワッショイ、ワッショイ!ワッショイ、ワッショイ!...」
神輿はかけ声とともに練り歩く。
このパレードはもちろん正常な行事だったが、狂気しか感じられない出来事もこの通りで起きた。
当時、東京のバスガール、女性の車掌を歌ったコロンビア・ローズという若い有名な歌手がいた。その歌手があるとき、我が家の店番おじさんの家を訪れた。おそらく親戚同士だったようだ。この歌手は隣りの桐生市の出身で、芸能人で姿かたちがきれい、歌は当時のヒットチャートでトップ、大晦日のNHK紅白歌合戦に数年連続出場した。この人が前の家を訪れると、そのたびに野次馬がどこからともなく現れ、殺到の大波が通りにできた。人波はあたり一帯に広がり、誰ひとりたやすくは身動きできなくなるのだった。
凝り固まった群衆はほぼ沈黙を通した。だれかが「見えた?」と連れの者に訊くだけの口数の少なさだった。目当ての人が出てくるのを長い間辛抱して待つのだ。
しかし、一目見たいと思う望みはかなえられなかった。ローズはこの家の裏の竹やぶを通って両毛線の線路脇に抜け、足利駅に向かったと思われた。
さらに凄まじかったのは、急に路上に現れ一人でパレードする「淫乱ばばあ」だった。知名度はローズと同じくらい、通りに現れると必ず群衆が現れた。情報は口コミですぐに広まった。地域の北の方から次々にやってくる人々の走る足音が屋内からも聞こえた。
群れをなして人々は通りの両側に並んだ。
「淫乱ばばあ、謝まれ」
この決まり文句が火付け役になる。煤けたような黒い顔、乱れた髪の毛、裸足の女性は、この言葉を聞くやいなや、素早く居場所を移した。動きにつられて人波もどっと動いた。
煽りは続く。
「淫乱ばばあ、謝まれ」
繰り返し煽られて恐ろしい表情になり、電柱に近づくと、何ごとかつぶやきながら汚れた髪を振り乱しつつ木の柱に激しく額をぶちあてる。
「ガン、ガン、ガン!」3、4回繰り返される。
衝撃は大きかったはずだ。もし近くに電柱が見つからなければ通りの舗装を選んだ。
「ガン、ガン、ガン!」
人々の扇りはなおも続く。狂いに狂った女性は、時々額から血を流した。
すばやく進行する激しく恐ろしい出来事だった。汚れた服の汚れたヒロインは超速で通りを進んだ。両側の観衆も素早く動き、すべてトルネードのようなスピードで過ぎた。
パレードがどのくらい続いたのか、どこまで進んだのかはわからない。家は通り3丁目2781番地だった。覚えている限りこの通りは5丁目の八雲神社前が突き当りだった。
ヒロインではなく、観客のほうがむしろ狂っていたと思う。集合的狂気というものが感じられた。驚くべき出来事だったが、後味は悲しかった。
エピソード3: 女の子と相撲を
大相撲はテレビで見ることができた。しかし、受像機のセットは市場での販売が始まって間もなく、普通の人々にとって高価すぎた。これをビジネスチャンスと思い、一部の人々が少額の料金を受け取って、中継される相撲やレスリングの試合をテレビで見せるようになった。
ある日、弟の孝ちゃんと僕で、そのような場所の1つに行った。街の大通り近くのアパートのような家の屋外階段を上って映画館のように暗くなっていた部屋に上がった。入り口で10円ずつ支払い、おまけのものを手にして、言われたとおり奥まで進んだ。
当時、テレビ番組はフルカラーでなく白黒だった。さらに画面サイズが非常に狭く、通常14インチ幅だった。したがって少しだけ離れても、あまりエキサイティングなものでなくなった。楽しむためには想像力が必要だった。
しかし、現実の世界では、近所の少年たちの相撲は非常におもしろかった。相撲を取る場所は通りのアスファルトの上、または渡良瀬川の河原にあった公園の砂場だった。
相撲の土俵は、大通りと南銀座通りを結ぶ、あまり車が通らない舗装道路の上に蝋石で円を描いてこしらえた。そこに男子数人が集まり順番に相撲を取った。倒されたり土俵外に出たりするまで勝負は続く。
相撲は通常、2人の力士のぶつかり合いで始まり、互いにもみ合うか、または強く押し合う。競い合うのは強さ。とにかく相手に勝つことを目指す。全力を尽くす必要があるのは確かだが、素早く反応するテクニック、ワザも重要だった。
昔からの伝統的なしきたりで力士は男のみ、女性は認められない。相撲だけでなく歌舞伎もそうだった。女性は土俵や歌舞伎の舞台に上がることは許されない。言うまでもなく近所のリトルリキシはすべて男子だった。
再びある日、我が家の前の高級料亭の前の私道で僕たちは相撲を取った。この場所はのちに郵便局になったおじさんの家の隣にあり、南銀座通りに隣接しながら舗装なしで、子供たちが遊ぶのにたいへん好都合な場所だった。日中、駐車されている車は見たことがなかった。
力士は孝ちゃん、マーくん、シゲたん、ヨーちゃんと僕だった。そのうちマーくんは僕とほぼ同じ年齢でライバル同士だった。僕は寄り切りが得意で、ベルトを握ったまま土俵外に相手を出す。一方、マーくんは投げが得意で、相手を地面に投げ倒すのだった。
相手を次々と変えた相撲の取り組みが進むうちに、誰かが叫ぶのが聞こえた:
「私も相撲をやりたい!」
誰もがびっくりした。女の子のアヤちゃんだった。料亭の娘で、最初から僕たちの相撲の取り組みを観戦していた。
しばらくの間、沈黙が続いた。不可能だとみな思っていた。女子の相撲取りはどこにもいなかった。相撲は男のためのものだった。
僕は大いにためらった。相手は女の子でいくつか年下。同レベルで戦うのは無理にきまっている。
しかし、ついには、男女での相撲も可能なのではないかと考えた。どのような結果になるか知りたかった。
「わかった。二人で相撲しよう」
注目される中、綿密に見られる感覚を強く意識しながら、アヤちゃんにぶつかっていった。しかし、胸と胸が合わさった瞬間、不可能だということをあらためて知った。これはダンスだ!
ふんわりとして柔らかで、滑らかすぎて穏やか、もろくて壊れやすい。できるだけ力を抑えて寄り切った。
緊張した雰囲気がずっと続いた。誰も何も言わなかった。女の子と相撲をしたことを僕は悔みきれなかった。許されないことをした。
願いを遂げて喜んでいたのはふわふわのピンクのセーターを着た女の子だけだった。ただ、彼女は彼女で、相手は堅くてタフで、しっかりしていて頑丈、不屈で強いと思ったに違いない。両力士はそれぞれ正反対の印象を抱きながら、どちらも同じ不可能性の溝を感じとったのではないだろうか。
エピソード4: 鑁阿寺の濠で溺れかけ
柳原小学校は市役所の隣、約900年前の平安時代に建てられた鑁阿寺の北にあった。通学途中、家から5分で行ける雪輪町を通った。そこからのルートは、主に2つの選択肢があった。1つは漢方薬局の愽仁堂の角で左に曲がり、佐川酒店の角まで遡る道沿いを北に向かうコースだった。少し歩くと市役所、そして校庭の大きな欅の木にちなんで今けやき小学校と呼ばれている小学校の敷地に来る。もう1つは、北上するのではなく、井草通りに沿って東に向かい家富町の鑁阿寺の角から西側沿いに北に向かうコースもあった。
自宅と学校の間の移動には20分から30分かかった。この時間の長さのために学校からの帰り道、寄り道する場所が必要だった。特に好きだった活動はマムシ・ウォッチングだった。
郵便局近くの雪輪町のマムシパウダーの店、霜田天狗堂まで来ると、ショーウィンドウのまん前に立ち、ガラスの向こうでヘビがくねくねするのを眺める。マムシはワラを敷いたショーケースの中で飼われていたが、そういう環境が好きなのだろう。乾燥ワラの黄色を背景に、細長い体の黒の縞模様がぬるぬるしているように見えた。ヘビは決して頭をもたげない。頭もチロチロする舌も見たことがなかった。互いにからみ合いつつ横たわる数匹が、ゆっくり動きうごめくのを見るのは面白かった。
しかし、毎朝、学校に行く途中には鑁阿寺の濠の鯉をターゲットにした。この濠は日本の多くの城同様、土塁とセットで足利氏一族の館と鑁阿寺本堂を保護するために造られた。当時はセキュリティのために非常に深かったに違いないが、今は鯉がのんびり泳いでいる。
楽しみのために歩道から唾を飛ばす。すると鯉どもが激しく動き出し、唾液の粒を自分のものにするため格闘した。数匹の鯉、黒や、白と紅色のものが、粒が落ちた場所に急に集まり、互いに激しく押し合いへし合いする。プロデュースは案外簡単でも見応えはあった。
ある日の放課後、日常のルーチンを変えた。水中の鯉をもっと近くから見たかった。一人で行った。広大な敷地を取り巻く寺の土手を訪れるのは初めてだった。
西門をくぐり抜け、土手上の狭い道に上がり、しばらく進んだ。
午後の早い時間で、いつもの喧騒の中、町全体がけだるそうな感じだった。水の表面は穏やかに見えた。しかし、それから下のほうは透明ではなく、むしろ暗かった。表面のすぐ下には濃い緑色の藻が繁茂していた。鯉の姿を探したが見えなかった。
夜間に雨が降ったために草が滑りやすくなっていたことに気づかなかった。斜面を下り始めたとたん足が滑り体が浮いた。両手で草を掴み、濠に落ちないようにするのがやっとだった。バランスは完全に失われていて足場の回復はむりに思えた。
手遅れと思った。ゆっくりと体が水中に落ち始めた。深い底なしの水中に沈み、今にも死ぬのだというイメージに襲われた。
そうした思いから金切り声が出た。
「きゃーー!」
まさに女ものの悲鳴だった。パニックの叫び声だった。
エピソード5: 神はトラックの運転手だった
そのような叫び声を叫ぶとは夢にも思っていなかった。もしあるならば「ワー!」や「ウワー!」のようなものになるにちがいないと思っていた。しかし実際のところ絞り出されたのは、まさに女の子の叫び声だった。これはたいへんなショックだった。通り過ぎようとしていたトラックの運転手が悲鳴に気づいたのは幸運なことだった。土手にしがみついているのも見えたにちがいない。トラックを道端に止めて降り、歩道から石垣沿いに下り水の中にまで来た。それを見て助かったと思った。頭に手ぬぐいを巻いた神は水中をゆっくり歩いてやって来た。両腕で抱えて僕を土手に持ち上げた。それからまた濠を渡ってトラックに戻り、車を走らせて街の向こうに消えた。
いつもの午後の喧騒が周囲に再び浮かび上がった。濠の水は深くはなく実は浅かった。助けてくれたのはまさに神だった。水が浅いことを知っていた。土手の上に上げることができるとわかっていた。ズボンと靴が濡れることを知っていたが、まったく気にしなかった。
濡れたものを乾かすために時間をつぶす必要があった。普段は無縁な別のルートをとり、通り1丁目から通り3丁目までぶらぶらしながら行った。
家に戻ったときにはズボンはなま乾きで、粗くごわごわしていた。母には冒険については黙っていた。隠しおおせると思っていた。
しかし、真実はにおうもの。母の家事を手伝うため我が家に一緒に住んでいた母の最年少の妹、コトちゃんが言った:
「何か匂うよね?魚臭い?」
母はすぐに匂いの源を探り当てた。彼女は僕に言った:
「ズボンを脱いで洗濯機に入れなさい」
何か異常なことが起きたことは二人とも知っていた。何も尋ねないうちにすでに真実の半ばが把握されていた。しかし、僕にとって重要だったのは事故の性質ではなく、自分自身の性質、つまり奥の方に女性的なものが隠されていたことだった。
エピソード6: 授業中の笑いと蛮行
松崎先生は、柳原小学校のシニアクラスの教員で、5年1組と6年1組のときの担任だった。佐野市に近い市内最北部の地域、樺崎町に住んでいた。自転車で学校まで来るのに1時間以上かかると言っていた。学期末に生徒に通信簿が手渡され、両親に届けることになる。よく書かれていた批評には毎学期、「もっと前向きに」、「積極性が必要」、「健康がすぐれないのかもしれない」、「もっと元気を出した方がいい」というような否定的な評価が並んだ。
言葉数の少ない生徒だったから、こうした評言は的を射ていた。家の中や近所の友だちとの間では普通に話をしたが、学校に来るとあまり話せなかった。選択的緘黙と呼ばれる医学的問題であるらしいということは大人になってから知った。クラスに同じ問題のある生徒が数人いて、当然、その子らとはまったく話をしなかった。
ある日、学校の国語の授業中に笑いの爆発が起きた。そのようなことが起きたことはかつてなかった。
指名されたたみ子ちゃんが机の脇に立ち、教科書にあったエッセーを声に出して読み上げていた。しばらくの間、流暢に読んでいたが、「ウスバカゲロウ」という言葉に差し掛かったときに笑いが起こり、ついにはそれが爆発した。
ウスバカゲロウは、透きとおった薄い翅のある、とんぼのような昆虫のカゲロウを指す。ふつうウスバ・カゲロウというシラブルで発音される。少し息を止めたのか、このときこれがウスバカ・ゲロウにされた疑いがあった。ウスバカは「ちょっとバカ」を意味する。ゲロウはサムライドラマで使用されているように「下郎」、低い身分の男を意味する。こうしたことから爆笑が生まれた。
松崎先生より以前には、津久井久美子先生担任のクラスにいた。先生は若くて美しい女性だった。市内南部に住んでいて、おそらくバスで学校に出勤した。正田くんと二人で家に招待されたことがあり、その日には3人でバスで行って、ごちそうしてもらった。
この先生の授業スタイルは松崎先生とはまったく異なっていた。静かな教室でのレッスンよりも、生徒各人のめんどうをみるのが好きなようだった。教壇の前に据えた机に座り、よく一対一の対面授業をした。
ある日、先生の机の前で順番待ちで並んでいたときに、蛭川くんが先生の後ろに立ち、親指と人差し指で艶のある黒髪1本をつまみ、指を繰り返し滑らせるという芸当を笑いながらやってのけた。僕はそれを見て猛烈に嫉妬した。先生はいつもどおり満面に笑みをたたえて、机の向こう側の少女に面と向かって話しを続け、蛭川くんの無礼な行為は気にしていないようだった。
学校生活は単調で行儀の良いものだったが、そうしたなか、これら2つの出来事は、めだって興味深く思われた。
エピソード7: 薪割り
和菓子を作るための設備は裏庭に面した北の窓の近くにあった。2つの大釜と炉、合わせて2つのセットだった。炉の中で薪や炭を燃やして湯を沸かし、数キロもの小豆を煮てあんこを作ったりもち米や和菓子を蒸したりした。
よく、四角い木の枠のせいろから出来たてのおこわをもらった。手にするとあちちとなったが、口に含むとおいしかった。
燃料は石炭やコークスはめったに使わず、しばしば薪を使った。この薪は市内の西の方の山で薪屋が集めてくるものだった。薪は人力車によって運ばれ、はるばる舗装道路をやってきて南銀座通りの店の前に到着する。
薪屋は60歳代のおじいさんと見受けられたが、健康で頑丈なからだつきだった。貨物から薪の束を数十降ろし、裏庭の物置に全部一人で運んだ。
「近頃は都合よく晴れた日が続いております」と、机の向こうに座っていた父に語りかけた。
「雨の日は最悪。最近はいつも晴れますからね、ありがたいことです」と父は答えた。「雨が降るとみんな外に出なくなり、うちの商売も上がったりです」
「いや私のほうもそうですよ。雨の日には働かないんです」
天気についての世間話はまかせておいて、僕は裏庭に行き、薪割りを取り出して一人で薪を割った。
薪割りの道具には鋭い刃はないものの、破壊力が強力な重いヘッドがある。さらに長さ1メートルほどの硬い木でできた柄がある。つまり、それを使うには体力が必要だった。明らかに大人用で、振り回すには自分はおさなすぎた。
しかし、僕は挑戦者だった。薪割りの技の極意を知りたかった。おそらくサムライの精神と関係があると思った。
薪の束から1本取り出し、まっすぐ上向きにした。うまくまっすぐに立てられれば、薪割りは半ば成功だった。
僕は全力で薪割りのヘッドを振り下ろした。薪が正しい姿勢になっていて、真ん中に命中した場合、確かにまっぷたつに木が裂けた。しかし、非常にしばしば木は割れずにどこかに飛んでいく。特に我が家の飼い猫が走り回っているときは危険だった。
僕は、剣で相手の頭を叩き割る剣士になることにした。集中力が必要だった。気が散っているとうまくいかない。極意は正中線を正しく把握し、そのラインを狙って薪割りをまっすぐに振り下ろすことだった。的確にやれば力はいらないのだった。
こうして少しずつ進歩していくうちに、触覚の長いカミキリムシという友ができた。
「やあ、そこにいたんだね!」
木の幹の奥にこしらえたトンネルの中から、この虫がしばしば現れた。
エピソード8: もちつき
父の仕事は忙しい仕事ではなかった。通常、午前6時に起き、朝食の前後に和菓子を作り、後は店番をした。こうした仕事ぶりは年中ほぼ一定していた。しかし、正月に向かう間の1週間ほどはまったく趣が異なった。顧客からの注文に従って連日もちつきだった。もちは新年の食卓に欠かせない。
洗って水に漬けておいたもち米をせいろに入れて蒸し、柔らかくなった米を臼に入れ杵で叩いてつく。通常2人で行う。 1人が杵でもち米をつき、もう1人が手を湿らせて臼のまんなかにもちを集める。
大量生産には機械が必要だ。200ボルトの高電圧で作動するもちつき機がもともと和菓子屋に必須のマシーンで、仕事場にあった。この機械は簡単な仕組みのもので、スイッチを入れると鉄のやぐらのまん中で鉄棒が上下動を始め、端に付いている木製の杵のようなものがもち米をつき始める。棒が上下する間、父は膝を曲げた中腰で前に座り込む。時々水に濡らした手でもちを均等になるように集める。しかし、これを続けるのはたいへんな苦労のように見えた。
「おーい、チャーくん、のし板はあるか? なかったら店先に行って取ってこいよ」
空ののし板はすぐなくなる。もちは鏡餅以外、型取りをするためにのし板に伸ばして、乾かして固くする。配達は萩原くんが専用のバイクで行い、早かったはずだが、すぐにのし板は払底する。
萩原くんは中学を卒業してから父の弟子になり、ともに働き、菓子職人としてのキャリアを始めていた。僕たちとともに同じ屋根の下で暮らしていた。おしゃべりな人ではなかったが、顧客からの注文取りは得意だった。家族全員が大いに助かった。
家族総出で餅つきに取り組んだのだが、助っ人の4人兄弟のうちの3人はすぐに疲れ、情けない気持ちになった。3人のうち特に下の2人は、仕事よりも遊びが好きで、できるだけ早く上がりたいと思った。
冬の日はますます短くなっている。
「もう遅いね。いつになったら終わるのかなぁ?」僕は兄に尋ねた。
「はらがへった」と弟が言う。
「もうちょっとかかるかもしれない。元気出せよ、2人とも!」と年長の兄。
仕事が終りに近づくと周りはだいぶ暗くなった。子どもの担当は出来たての熱いもちをさますためにのし板を裏庭の空缶の上に並べ、店頭に出入りするのし板を運ぶ作業のみだったが、それにしても労働時間が長かった。
しかし、おかげで我が家にも正月が来た。
エピソード9: 永遠の眠り姫
我が家にチビという名前の猫がいた。 もらい猫だったが、名前どおり可愛らしい子猫で、いつも黒い縞模様のグレーの毛皮のコートを着ていて、どことなく高貴な感じもした。
渡良瀬川の土手から時々取ってきたネコジャラシが大好きだった。見つけると何度も片手を上げてジャンプし、取ろうとした。
チビは夜も昼も寝る。日中のほうがぐっすり眠っている。夜、寒くなると足の上に乗ってきて寝ることがあった。
しかし、猫の重みで足の自由な動きが制限されるのは嫌だったから、いつもそっと足先で追い払った。チビはそのうちに、押しのけられずに快適に眠れる場所を見つけた。特に夜が寒すぎると、布団の中にもぐり込んできて肩のあたりの脇に横たわり、両手を内に曲げて居座った。やがて写ってきた体温に耐えられなくなると、布団の外に出てあくびをし、別の行き先を探しにいった。
この猫が死んだのはルーチンにしていた行動が原因だったと思われる。
ある朝、チビはお気に入りの場所への散歩から帰ってきた。裏庭を通り抜け、建物の入り口にたどり着くと、いつものようにホップ、ステップ、ジャンプしたと考えられる。最初は露天風呂の敷居、次には父の仕事場の敷居、そして最後に、炉の大釜をほぼ必ず覆っているものと刷り込まれていた大きな板の上だった。
かわいそうに! そのときだけ3つ目の足場がなかった。事故は起きるもの。板が外されて誰でも熱湯にさらされるようになっていた。そこに落ちて溺れ、その場で死んだ。 父はすぐに救け出したがすでに命を落としていたと言った。
学校から帰ると父が一部始終話した。
「手遅れだった。掬い網で引き上げたけど、もうだめだった。ひしゃくで水をかけまくった。でも反応がなかった」
「かわいそうだよ。 信じられない」と僕は言った。
「箱に入れて自転車の後ろに載せて川原に行った。お墓は水位観測所の近く。シャベルで穴を掘って埋めた」
「チビはもう永遠の眠りについている」と思った。「それはどこ?」
「よし、自転車で行ってみようか」
店番は母に任せて父と僕で出発した。
「気をつけてね」と母は言った。
そこにはすぐに着いた。通り3丁目の川岸に墓はあった。
眠れる美女にもう一度会いに、自転車から降りて僕は土手を下った。
エピソード10: 甘い椎の実
ある日、同級生のまさるが椎の実を持って学校に来た。すごくうまいよと言っていた。 昼休みに校庭の片隅に男子数人が集まって食べた。
「うまいね」とミツが言った。
まさるはとても誇らしげな顔をした。
「生でも食べられるし、おいしいよ。明日 採りに行こうか?」
ミツは行きたがった。「どこ?」
「明日昼過ぎ、徳正寺」とまさるは答えた。
翌日、まさるとミツ、そして僕を含む数人が、丘の麓にある寺に椎の実を拾いに行った。 丘の上に織姫神社があり、西側の中腹に西宮神社がある。また、いくつかの寺が丘のまわりに点在していた。徳正寺は学校から一番近い寺で、秋に椎の実をつける大木がたくさんあった。
歩いて数分で寺に着いた。5時間目の授業が始まる前に学校に戻ることができた。境内のあちこちに椎の実が大量に落ちていた。
「家から袋を持ってきた。 ここに置いておくから早く集めて入れるんだ」。ミツが他の生徒たちに命令した。
袋いっぱいの椎の実を持って僕たちは学校に戻った。
「みんなで食べよう」とミツが言った。
男子生徒全員が校舎の前で椎の実を食べた。硬い殻はむくのが大変だった。
この出来事は直ちに松崎先生の知るところとなった。ホームルームの時間に先生は善と悪について話した。
「椎の実を取ってきて校庭で食べた男子生徒がいたことは知っています。きみたちがやることは全部わかっています」と先生は続けた。「女子は参加していません。男子の何人かがやっただけです。しかしですね、授業時間中に学校を抜け出して、そのような場所に行くことが許されるのかどうか、みんなに聞きたいと先生は思います」。
愚かなことをした僕たちが叱られているのは明らかだった。
「松崎先生、すみませんでした」
「昼食のために何かを買いに行くのは仕方ないでしょう。家から弁当を持ってくることができない子もいますからね。しかしですね、校外に出てなにか拾ってくるのはまた別のことです」と先生は断固として言った。
「交通事故に巻き込まれるかもしれないし、椎の実から虫がからだのなかに入ってしまうかもしれない」
「しかもですね、実はこの木の実はお寺のものなのです。たとえ木から落ちて地面に転がっていたとしても、お寺の人たちのものなのです。食べたいと思っているのに忙しすぎて拾うことができないこともあるんですね。だから盗んではいけません...」。
ふだんは優しい先生の小言がえんえんと続いた。松崎先生はいろんなことを考えているのだなと僕は思った。大人になるためにはもっと勉強しないとだめだなと思った。
エピソード11: 郵便局が燃えた
その昔、雪輪町に近い、市内中心部の郵便局本局が火事になったのは家族全員が寝静まった冬の朝だった。夜中に消防車のサイレンが鳴り響き、鐘の音が鳴り渡るなか、異変を察知した両親が息子たちを起こし、避難する準備をさせた。
裏の門から出て周囲の家々にはさまれた細い路地に入ると、すでに近所の人たちが何人か集まっていた。門前で立ち止まると、黒っぽいオレンジ色の炎が燃え上がり、同じ色の火花が家並の屋根より高く、暗い空に飛ぶのが見えた。郵便局は直線距離で100メートルほど先だった。
「ひどい燃えかただね。火はこっちまで来るのかな?」と、ランドセルを背負った、半分ねぼけた弟が聞いた。
「いや、それはないな」と父が答えた。「風は東向きだし、火の粉が遠くまで飛ぶほど強くない」。
「なんで火事になったんでしょうね」と近所の人が父に尋ねた。
「わからないけど、たばこの吸い殻の不始末じゃないでしょうかね」と父。
何人かの人々がその場に残り、寒々とした夜気のなか、火が燃え立つのをしばらく眺めていた。
「郵便局は地域にとって大切な場所なんだ。 郵便局がないと困るよね」と近所の人が言った。
「そう、その通り。火事は起こさないようにするべきだ」と父は言った。
やがて、ベッドに戻っても大丈夫だろうという結論に、みんなが達した。
あくる朝、新聞で読むと火災で死傷者は出ていないことがわかった。最後の一人が局をあとにした後、出火したという。タバコの吸殻の始末を怠ったのが原因だという。
通学の途中、焼け残った建物を見た。郵便局は鉄筋コンクリート3階建ての建物で、机、テーブル、ソファ、椅子などすべてのものが焼けていた。あまりに強烈な臭いに、すぐにその場から逃げた。地獄の臭いだと僕は思った。
学校から帰って、僕は母に言った:
「気持ち悪いくらい汚い! 臭すぎる! あんなところ、走って逃げるしかない」。
「近づかないで」と母は言った。
「燃えた手紙や葉書はどうなるの?」と僕は聞いた。
「書留郵便なら補償されるけど、ほとんど全部、あきらめるしかないわね」と母は答えた。「この10年で最大の出来事のひとつ。お前が赤ん坊のころ、台風で大洪水が起きたけど、それ以来だわ」。
「ああ、知ってる。お店のなかに泥色の水が溜まってた。覚えてるよ」。
「本当? あり得ないでしょ?」。
エピソード12: 映画館の話
1950年代から60年代にかけての足利市には、映画を観に行くときに選べる映画館が10もあった。どの映画館に行くかは年齢次第だった。多くの少年少女は、鑁阿寺近くの井草町にあった有楽館に足を運んだ。
「ヒャラーリ、ヒャラリコ、ヒャリーコ、ヒャラレロ... 誰が吹くのか、ふしぎな笛だ」
時代劇の幻想ドラマ『笛吹童子』の主題歌はこのような出だしだった。ラジオで放送され、子どもたちに大人気だった同名のドラマの主題歌と同じだから特に記憶に残っている。音楽により魔界の扉が開かれる感じがした。
「ヒャラーリ、ヒャラリコ、ヒャリーコ、ヒャラレロ... タンタン タンタン タンタン タンタン どこへどこへ?」
当時の東映の侍映画には、ついには善が悪をやっつけるという勧善懲悪の色彩があった。中村錦之助や東千代之介、大友柳太朗などのスター俳優が好きだったのは、姿かたちがよくて刀さばきもうまく、また、善の代表だったからだった。いい軍と悪軍を見分けるのは、子どもはだれでも一目でできた。
勧善懲悪のストーリーはプロレスの試合にも見られた。このアイデアは人々を大いに沸かせ、広く受け入れられた。力道山はいつも、最後の手段の空手チョップをふるって相手のレスラーを倒す。筋書きがあると感じられたが、ほとんどの人にとって、それは望ましい内容だった。
大人になるにつれ、男の子は中央劇場に映画を観に行きたがるようになるものだった。中央劇場は通り3丁目の渡良瀬川の堤防沿いにあり、すぐに行けた。ライオンが吠えるメトロ・ゴールドウィン・メイヤーやサーチライトが飛び交うフォックスの映画などを中心に上映していた。
ジョン・ウェインも好きだったが、オードリー・ヘプバーンの方が好きだった。この人は15歳年上だったが、年齢の差に関係なくきれいだと思った。『緑の館』(1959)のロングヘアだけでなく『ローマの休日』(1953)のショートカットも好きだった。
ちなみに柳原小学校では、階下の2年生のクラスにいた春子ちゃんがヘップバーンみたいで好きだった。長い髪が多くのなかでひときわ目立った。
ところが、ある日の昼休みの時間に1階と2階の間の階段を上り下りする彼女を見つけた。長い髪の毛が消えていた。
「コロッケ、わたし髪切っちゃったの」と彼女は言った。
何も答えることができなかったのはいつも自分流だった。ショートカットになっていたことがショックで何も言えなかった。彼女らしいスタイルだとは思ったが、ロングヘアのほうがよかった。オードリーにも春子ちゃんにも裏切られた。
そうだ、映画館の話だった。元に戻そう。
大人は末広劇場やアサヒ座、新東宝や大映に映画を観に行った。しかし、日本の成人映画はあまり面白くなかった。末廣劇場ではイカ焼きを売っていた。おいしかったが映画はどうもだった。
エピソード13: はるかな記憶
生まれた世界がどれほど良かったのか、あるいは悪かったのかは覚えていない。1946年1月30日に生まれた。今になっても大嫌いな寒さのなかでおそらく生まれたのだろう。しかし、その寒さがどれほどのものだったのか、そのような環境のなかで空気に触れてどのように泣いたのか、母から切り離されたときのショックはどれほどのものだったか、まったく記憶にないのはいわずもがな、誰しもそうにきまっている。
の世で最初の、一番古い記憶は、長井屋菓子店が浸水したことだった。1947年9月、キャスリーン台風が関東・東北地方にもたらした大雨による洪水で近所の家々がすべて被災した。数えてみると、そのとき1歳8カ月くらいだった。
当時、誰かが抱いて連れて行ったのか、一人で店近くにまで行ったのかはわからないが、店内でミルクコーヒー色の水がうねりながらゆったりと動く珍しい光景を目にした。その映像は脳の記憶領域に刻み込まれ、今もなお残っている。この目で見たその映像はいつも脳裏にあるのだが、母に言うと「ありえない」と即座に否定されるのだった。
渡良瀬川は足利市の南部、渡良瀬橋と中橋の間で大きくカーブして、通り3丁目にあった店のすぐ近くまで来る。当時、堤防が崩れ、道路が川になったと聞いている。被害は甚大だったから、70年以上経った今でも当時の報道写真がネット上にいくつも残っている。いかだや古い渡し舟に乗って濁流を渡る人々、屋上で朝食をとる人々など、さまざまな姿が見られる。
キャスリーンのことはこれで終わり。2つ目のはるかな記憶に移ろう。
1948年11月、僕が2歳10カ月のときの弟の誕生日にまで遡る。弟は店の奥の部屋の隅で、兄たちと同じようにして生まれた。新生児の誕生は助産婦会の女性が完全に管理していた。
僕はというと、お産の現場近くをよちよち歩いていたようだ。母が病気でないことはわかっていた。大きな木のたらいがあったと思う。そのなかで弟が生まれたばかりの赤ん坊としてきれいにからだを洗われたかどうかはわからない。
数日後、神棚から赤子の名前を筆で書いた和紙が誇らしげに垂れているのを見た。もっとも、その時、私は字が読めず、弟の名前も知らなかったから、神棚に赤子の名前を筆で書いた紙とかなんとかということは、後になってからの推測にすぎない。
古い記憶というものはどうしても旗色が悪くなる。それは仕方のないことだ。
エピソード14: はるかな記憶ーその2
記憶のなかで3番目に古いのは、松沢洋菓子店の2階の部屋から見た光景だった。長兄におんぶされたか、あるいは母にベビーカーに乗せられて連れて行かれたように思う。その店は通り2丁目の大通りの角にあった高島屋の隣にあった。
その光景は階下の部屋を上から見た映像の断片だった。不思議な新しい角度からの景色がとても面白く見えた。人が頭を動かして通り過ぎるのが見えた。
若い店主の人と奥さんみたいな人が出迎えて、チョコレートをくれた。
4つ目の記憶は、5、6歳のころに通っていた友愛幼稚園に関係があった。
この幼稚園は家から西へ数百メートルのところにあった。いつも母に連れられて歩いて通っていた。しばらくの間、親子で言葉を交わすこともなく歩いていくのだったが、幼稚園の近くまで来ると、斜め前にある2階建てと3階建てが半々混じった建物に気づくのだった。窓の少ないタイル張りの外壁が一面緑のツタで覆われている。
「何の建物? 怖くない?」と母に訊いた。
「クリニックみたいだけど、隣も医者だから、そうなると、悪い人が閉じこめられるところかな?」
母はこの建物のことはよく知らないようだった。
母が鉄の門のロックを開け、僕たちは幼稚園のなかに入った。
幼稚園の建物のなかでは子どもたちが音楽に合わせて踊るのだった。これは恥ずかしがり屋だしダンスは嫌いだったしで、とにかくいやだった。
幼稚園の庭のまん中には大きなビワの木があった。夏がくると子どもたちはこの実を1つずつもらえた。とてもおいしかった。
幼稚園は両毛線の線路のすぐ北側にあり、時々電車がゴトゴトと音を立てて走っていく。線路の近くに大きな四角い砂場があって、子供たちは砂の城を作ったり砂の団子を作ったりして遊んだ。
ある朝、その砂場からビワの木の下の別の砂場に歩いて移った後のことだった。いやなことが起きた。何か大きなものが半ズボンの隙間からどぼんと砂の中に落ちていった。
大きなものを落とす子はそうはいない。僕はいいやつではない、きっと悪いやつなんだ。先生には何も言わなかった。恐ろしい建物の中に閉じこめられたくなかった。
エピソード15: バイパス
「やあ、そっちの上のほうじゃ、どうなってる?」道路から見上げたまーくんが聞いてきた。
「日向ぼっこしながら眠っていた。気持ちよかった。今からみんなでかけっこしようか?」僕は言った。
機械の倉庫が建てられるまでは、我が家の敷地の端のほうに、芝を敷き詰めた土手のような傾斜があって、僕は横たわって仰向けになったりうつぶせになって男の子らが集まってきて何をするのか見渡したりしていた。
「よし。そのへんにいるやつらを呼んでみるよ」
まーくんは角の床屋のあたりにいた男の子たちのところへ行った。
僕が見下ろしていたこの道は、大通りと南銀座通りを結ぶバイパスだった。車はほとんど通らない。歩行者天国で利用するのは近所の男の子たちだけだった。女の子は男の子に混じって遊びに来ることもなく、自分たちだけで遊んでいた。ただ、シロという名のおとなしい犬が男の子に混じってうろうろしていた。当時、鎖もリードもなく一匹で屋外をさまよう犬がよくいた。
「ちゃーくん、3人集めたよ」。まーくんが言った。「孝ちゃんと一緒に降りてこいよ。5人でやれるから」。
ヒデ坊、シゲたん、まーくん、孝ちゃん、ヨウちゃん、そして僕の5人が、路上にローセキで描いたスタートラインに集まった。やるのは短距離のかけっこ、スタートラインに立った少年たちが「よーいどん!」の合図で一斉に走り出した。その後、角に来て右に曲がり、さらに電柱まで進み、木の表面にタッチして引き返し、元スタートラインだったゴールラインまで全力疾走を続けるという決まりだった。道路でやる相撲と同じように、誰が勝つのかわからず、おもしろいレースだった。
この道路には子供相手に商売をする男の人たちが何人かやってきた。自転車に乗ってやってきて、水飴などを買った子供らに紙芝居を見せる人が2人いた。紙芝居は絵札を差し替えながらストーリーを話して伝える芸である。さらに、トレーラーで新粉細工や餅を売りに来る人もいたし、中国でチャーメンと呼ばれる焼きそば、栃木風のジャガイモ入りのを売りにくる人もいた。
ただ、そういう商売人たちはすぐに来なくなった。 商売を続けるだけの力がなかったのかもしれない。
ある日、通りに子供が一人もいないことがあった。
そのせいか僕はリラックスしていて、そのへんの家の塀に体を預けてのんびりくつろいでいた。
すると、一人の少女が現われ、近づいてきて背中からからだを押しつけてきた。近所に住む小学生の女の子、あさちゃんだった。なぜかわからなくてびっくりした。
あさちゃんはますます強くからだを押しつけてきた。背中の輪郭や、ストレートヘアの匂いがわかった。
やがてこの子は家に戻っていったが、これほどの驚きは初めてだった。 女子と男子の関心はまったく違うのじゃないだろうかと思った。
エピソード16:渡良瀬川
渡良瀬川は、主要な山として日光の男体山と群馬の赤城山の間にある皇海山 (すかいさん)から流れが始まる。足尾の山々の谷を下り、桐生と足利の2つの大都市を通り抜け、洪水対策として造成された渡良瀬遊水地に至って流域を広げ、さらに南下し、最終的に利根川に合流する。
僕たちが住んでいた足利市の通り3丁目は、川に最も近い住宅地の1つだった。住んでいた少年たちは夏に川に泳ぎに行ったり、ほぼすべての季節に川辺りで釣りをしたりして遊んだ。
僕は水を恐れるあまり泳ぐことはしなかったが、水泳好きの男の子は夏に何時間も水遊びして過ごした。
夏のある日、弟の孝ちゃんと僕で川に釣りに行った。小型の魚のハヤを釣ることを目指した。いつも釣り上げたいと思っていたのはフナのような大きな魚だったが、めったにこちらに近づいて来てはくれなかった。二人で砂浜に立ち、エサのついた釣り針を水中に投げ入れた。
「今日は大きいのを釣りたいな」と孝ちゃんが言った。
「そうだね」と僕は答えた。
その日、すぐ上の兄のヤマくんは、渡良瀬橋を越えた砂州に釣りに行っていた。川を2つに割るこの砂州には広くてきれいな純白の砂浜がある。ヤマくんは竹かごのような罠を急流に散らばる小石の間に仕掛けて魚を捕まえる。きっと大きなえものを持ち帰るだろうと僕たちは思っていた。
ウキを見つめている間にヒデ坊が後ろを通り過ぎようとしていたことに気づいた。顔を向けて訊いた、
「どのくらい泳いでるんだい?」
ヒデ坊は「1時間かそこら」と答えて行ってしまった。
ヒデ坊は兄さんといっしょに、川の中に飛び込んで流れに乗って泳ぐ遊泳を続けていた。渡良瀬橋の下の護岸から、深くて緑色に近い流れの中にザブーンと飛び込み、かっこいいオーバーハンドで急な流れを泳ぎきる。飛び込んでからしばらくして岸に上がり、歩いて出発点に戻る。川の流れに逆らって泳ぐことはしない。流れを下る水泳ぎを楽しんでいた。
渡良瀬川は冬にはからっ風が吹きすさぶ風の通り道に変わり、新潟からの風が赤城山を含む群馬の山々を越えてやって来て、なまじでない寒い冬空をもたらした。しかし、夏の川の周りは、幸せばかりだった。
弟たちは獲物なしで家に戻ったが、ヤマくんはタナゴを2匹連れて帰った。予想はあたった。
エピソード17:親戚訪問
父は群馬県境町が故郷、母も同じだった。母は父の家の斜め前、50メートルも離れていない場所に住んでいた。父は長井屋本店という菓子屋の3男で、母は道路を渡って向かいにある内山酒店の長女だった。結婚まで隣人として住んでいたことは驚くべきことだったが、おかげで親戚訪問の手間は大幅に省けた。
「ハンカチ持った?」と母が訊いた。
「準備オーケーだよ」と僕は言った。
東武伊勢崎線の足利市駅までは徒歩で約15分かかった。通り2丁目の角で右に曲がり、国鉄両毛線の踏切を渡り、橋桁を幅広い屋根として中橋の下に住んでいた人々の大きな花壇を見下ろした後、川を渡りきり、駅前広場に到着し、駅舎に入って切符を購入、チェックイン、下り線のプラットフォームに上がる。
館林と伊勢崎の間の東武線は単線で、乗客は窓から風光明媚な田舎のパノラマを楽しむことができた。母の目的地は足利に隣接する都市、太田市の駅から4番目の停留所だったので、30分ほど、窓から景色が次々に通り過ぎるのを見て楽しむ時間を過ごした。
しばらくして列車は目指す駅のプラットフォームに到着した。
「着いたわ!」母は言った。
母は座席から立ち上がってつり革につかまった。
渡線橋を歩く間に母が少し緊張しているのがわかった。
母の義理の兄の嫁はいつも歓迎してくれた。昼食に寿司をとってくれた。マグロ寿司は父の好みのために家では食べたことがなかったが、その美味しさに僕は驚いた。母ももちろん同意見だっただろう。
敷地の間取りは本店と支店で非常によく似ており、店が正面前にあり、次が座敷、続いて奥に工場、裏庭があった。菓子店経営に都合のいい構成なのだろう。
続いて母の実家を訪れた。巡業中の多くの相撲取りを泊まらせたこともある、間取りの多い酒屋だった。
ところで疑問は残っている:父と母は子供時代に友だちだったのだろうか?
ノー、そうではなかったと思う。明治時代は男女同席は許されなかった。
彼らはいつから互いを知っていたのだろうか?
少し年長になってからは2人とも電車通学しており、同じ鉄道線の境町駅でそれぞれ反対方向、母は伊勢崎市の伊勢崎高等女学校に、父は太田市の太田中学校に向かった。どちらも5年制の学校で今でいう中高一貫の学校だった。
小学校もいっしょだったが、2歳年が離れている。たとえ互いに認識し合っていたとしても、出会う機会はめったになかったし、恋に落ちることもなかったと思う。恋愛結婚を示す証拠は見つからない。僕は見合い結婚用に撮影された写真を親が持っていたことを知っている。どのように結婚したかを知るにはそれで十分だった。
東武線の駅から帰る途中、両毛線の踏切を渡る前に母は突然膝を地面に沈ませた。母が転ぶのを見て僕は驚いた。親戚訪問中にあまりにも緊張していたのだろうか?
エピソード18:路地の行く先
我が家の西側の脇に路地があり、市内中心部の大通りにまで続いていた。この路地は幅が1メートルほどで狭く、通過する人はほとんどいなかった。
この路地は途中、子供たちの遊び場になっているバイパスを横切る。それよりわずか前に路地に面して鳥光の裏口があった。この店は新築で、スーパーより高級な鶏肉の専門店だったが、あるとき、僕は非常にショッキングな出来事を目撃した。ケッコケッコと鳴き騒ぐ鶏が店主のおじさんに首をひねられて絞められた後、おじさんが血をドバッとバケツにぶちまけ、しかも、僕の顔を見てニタリと笑ったのだ。
これはきつい体験だった。鳥のひき肉買ってきてと母から頼まれても、この店には絶対行かないと、その場で誓った。
路地はいったん途切れる。バイパスの道を渡り切ると、また始まる。少し行くと、左手の家から出てきたとみられる女の子が、一人で立っていることがよくあった。この子は何かをするわけでもなく、ただ立っていて、しかも、こちらをじっと見つめてくる。僕は思わず、頭をこつんと叩く。しかし、泣かない。いったいどういう子なのか理解できなかった。
すぐに太鼓をどんどんと叩き、経を上げる声が聞こえてくる。日蓮宗のうちがあった。
最終的には、この道は「夢の屋」という貸本屋につながった。路地から出て右に曲がると、大通りに面した貸本屋の店頭だった。学校の図書館にはめったに行かなかったが、この貸本屋からは絵本や漫画、日本人のマサルがケニヤで活躍する『少年ケニヤ』の載った雑誌など、いろいろよく借りた。
路地を通り過ぎるのはおもしろい。雪輪町の路地は特に、休んだ同級生の給食のパンを届けるよう担任の先生から頼まれ、よく通って家まで届けた。春子ちゃんの家も同じ路地にあった。「不許葷酒入山門」の石碑がある曹洞宗の寺の前から路地に入ると、わくわく胸が踊った。
エピソード19:足利の山々
渡良瀬橋を渡るとすぐに鳥居がある。ここは女浅間への入口だ。山とはあまりいいにくい、標高の低い丘あるいは高台なので、一気に楽に登れる。頂上に上がって見渡すと川も平野も山もとても見晴らしがよい。弟の孝ちゃんや相撲仲間とよく遊びに行った。
標高約100メートルの男浅間が隣りにある。こちらはちょっとだけ険しい。調べたところ、もとは1つの山だったが東武鉄道の線路を通すために低い部分に切り通しが作られ2つに分けられたようだ。
男浅間に次兄と一緒に行ったことがあった。この兄は冒険主義的行動主義の人で活動的、どぶさらいや釣りなどの水回りもよくこなした。だから僕にとってはあまり付き合いよくはなく、弟と遊ぶことのほうが多かった。
落ちていた木の枝を拾い、それを振り回しつつ、迫ってくる木の枝を払いながら、2人で山道を進んだ。しかし、風が並でなく強くヒューヒュー唸り、それだけで僕は不安な気持ちになった。松の木の高い梢が揺らぐのを見ると、どこか知れない山奥に迷い込んだような気分になり、そのためしばらくしたら「帰りたい、帰りたいよ」と泣き言を言った。
「だめだめ。来たばかりじゃないか」
兄は強い風に吹かれても平気だったのだ。しかし、なおも進むうちに「しよーがねーなー。帰るか」と許しが出た。
足利には低山がけっこうある。渡良瀬川の洪水対策上のネックと言われている岩井山は、渡良瀬川を迂回させるような形に突き出ている標高50メートルの低山で、戦国時代には見張り台として重要な位置を占めていたのではないだろうかと思わせるような場所である。
低山でも重要な山として水道山がある。これは市内中心部に位置する、浅間山と同じくらいの標高の山で古墳があり、市内に水道を供給する施設もある。市民の水道水は渡良瀬川で取水され、この施設で浄化される。水源は皇海山(すかいさん)。きれいな水に違いない。足利公園とされていて、もっとあとの話を先取りして言うと、私達が結婚式の披露宴をした蓮岱館がある。
浅間山から道を戻って渡良瀬橋を渡り、ほぼまっすぐ北上すると織姫山に至る。西隣りが機神山で、どちらも山頂に神社がある。
織姫神社の横道からさらに向こうの両崖山に至る尾根は現在は人通りの多いハイキングコースになっているが、昭和の昔には歩いているのは僕たちこどもくらいで、あまりおとなには出会わなかった。この尾根は上り下りの起伏が快い感じでしばらく続く。ときどき露岩があり、方解石のようなものが付いていたり表面が鏡のようになめらかだったりしておもしろい。さらには大岩山から行道山に至るが、道順がやや複雑になるため、それほどまでの奥には行きにくかった。
ある日、長兄が僕に言った。「行道山にハイキングに行かないか?」
「面白そうだね。行こう、行こう」
織姫山から尾根伝いに行くのかと思い、「織姫山から行くの?」と訊いた。
「いや、そうじゃない。バスで大岩山の麓の毘沙門天門山門まで行く。大岩山に登ってから行道山に行くんだ」。
長兄は谷川岳や八ヶ岳に登山するいわばセミプロだった。だから僕はまったく兄を信頼していた。
翌朝、長兄と弟と僕の3人で通り3丁目のバス停からバスに乗り、大岩山を目指した。バスで15分くらいで着いた。当時の市内はバスがけっこう走っていた。
「よし、着いた。ここでどっちに行くか選ぶんだ。ひとつは急な登り道、もうひとつは迂回路、迂回路のほうが簡単に頂上まで行ける」と兄が言った。
もちろん我々は楽な方を選んだ。孝ちゃんもがんばって兄たちの後を追ってきた。途中、おそらくモズとみられる鳥がギャーギャーと鳴いた。
「うるさいね、あの鳥」と孝ちゃんが言った。
「たぶんモズだな。モズはギャーギャー鳴くこともあるし、ほかの鳥のモノマネもうまいんだよ」と兄。
次第に深山らしくなっていくのを楽しむうちに、渓流がある頂上に着いた。行道山はこれまでの低山とはまったく趣が異なる心が洗われる宗教サイトのように感じられた。浄因寺本堂と茶室の清心亭を結んで断崖の上を渡る天空の架け橋は、北斎の絵と同じくらい見ごたえがあった。
山頂でのおにぎりはおいしかった。渓流にサワガニを見つけた。冷たい水がほてった足に気持ちよかった。楽しい1日になった。
エピソード20: 青山医院
青山医院は大通りを越えた、雪輪町の隣りの巴町にあった。行くときは母と一緒だったが、風邪で熱が出ているときが多く、歩くのがだるかった。
車寄せから医院に入ると、すぐに玄関の土間で、左右に揺れる振り子がある、正面の大きな掛け時計に向かうことになる。靴を脱いで上がると右手が待合室で、そこで順番待ちする。畳敷きのふつうの座敷だ。
冬の寒い日には火鉢に炭が入れられていて暖かったが、ほかに暖房はなかった。夏も同様で冷房はなく、扇風機があるだけだった。
順番が来ると看護婦さんが呼びに来る。立派に手入れされた、池のある和風の庭に面した廊下から引手のガラス戸を開けて左手の診察室に入ると、大きなデスクに座った青山医師、奥さん、看護婦さんに出迎えられる。
「今日はどうしたん」と医師が訊く。
「熱があって下がらないんですけど」と母が答える。
看護婦さんの指示によってデスクの反対側の椅子に座ったとたん、椅子から立ち上がった医師が寄ってきて「はい、あーんして」と言ってくる。口を開けると先端に鏡の付いた医療器具を突っ込まれ、「あけーや」と言われる。
これはべらんめえ調で「赤いや」のことだ。
たちまちヨードかルゴールのようなものが浸された綿棒の親分のような器具がのどに突っ込まれる。医師はこれで喉をかき回す。
すぐにウェーっとなる。しかしだ、
拷問だ。
おなかの調子が悪くて訪れたときには、診察した医師のべらんめえが「はってらー」となり、お尻をむき出しにされて看護婦さんから浣腸され、出たくなってもしばらくがまんしてくださいと言われる。病気だからしかたない。
薬局が玄関ホール脇にあり、帰り際の診療費支払時に小窓から薬が出る。風邪のときにはきまって飲み薬と粉薬の両方が出た。飲み薬はコーラのような味で粉薬よりはおいしかった。粉薬は白い紙を折り紙のように折った包みに入れられていたが、おいしくない。
風邪で学校に行かず、寝ているときには、すったりんごやバナナを食べることができた。これは特別なことだった。特にバナナは父がきらっていて、ふだんめったに食べられなかった。
ところで、ある時、孝ちゃんが熱を出して顔が真っ赤になったことがあった。父が青山先生に電話し、往診を依頼した。医師は快く応じ、診察かばんを下げてやって来た。このとき豪邸のある城から出て商人の家に往診のために訪れ、すっかり勝手が違ったからなのか、鬼の先生がべらんめえ調ではなくなり、あまり怖くもなかった。
帰り際に眼鏡がないと言ってあちこち探したが、額の上にそれがあることは、本人以外のだれもが知っていた。
「先生、眼鏡はそこに」と母が指差しながら言った。
気づいた医師も含めて、どっと笑いが起きた。
「いや、忘れてた」と医師は照れた。
孝ちゃんは快方に向かった。
エピソード21: 床屋
母に床屋に行くように言われると隣の隣の床屋に行った。順番待ちの人は多くはなく、楽にヘアカットできた。
女性の理髪師であるツルチャンは両親の娘だったが、めったに理髪することはなかった。「先生」と呼ばれる彼女の夫らしき人が、ほとんどすべての客に対応した。
先生はベストを尽くし、子供の客に対してもヘアカット、シャンプー、ひげ剃りのフルコースで臨んだ。
この先生はいつも、何も言わずに自分の道を歩んだ。かなり太めの体つきで、いつも白衣を身につけていた。時々「ムフ」と言う。これは何か良いものに気づいたときの兆候だったらしい。
髪をシャンプーしてドライヤーで乾燥させると、先生は店の脇に吊るしてある研ぎ革でかみそりを研いだ。これをするときは楽しそうに見えた。そして彼の仕事が始まる。
子どもなので、剃られるべき毛は眉毛を除いて顔にほとんどなかった。出て来そうな毛も僕の顔にはなかった。おそらく顔を剃る必要はなかった。
しかし、先生は続けた。彼は「ムフ」と言い、指で僕の唇をつまみ、かみそりを当てやすくする。僕は目を閉じて寝ているふりをする。「ムフ」と彼は言い、僕の唇を指でいじる。唇をつまんでいじくり回されるのはあんがい気持ちがよかった。よく研がれたかみそりの刃もやってきて、時は永遠だった。
こういうわけで僕は床屋は嫌いではなかった。
エピソード22: あたり一面真黄色
11月になると、市役所のまわりの銀杏の樹から金色の小さき形の鳥が次々に舞い降り、あたり一面の歩道に積もった。踏みしめるとざわざわと鳴った。
一人で下校するとき、金色の回廊をこちらにやってくる女の悪童どもに出会った。まだひらひら舞ってくるいちょうの葉もちらほらあった。
ほんとうは道の向こう側の消防署に行って、ぴかぴかの赤と金のどでかい車両を眺めたかったのだが、悪童どもが目に入ったので、まっすぐ進んだ。
「コロッケは沢田さんじゃないと笑わないんだよね」と少女のうちの一人が囃し立てた。
コロッケはあだなだった。校舎の反対側にある新井精肉店のお兄さんに塀の穴から手を振ると、道路を渡って紙の袋に入ったコロッケを届けてくれた。これは給食がないときの上級生の代々の伝統的な技だったが、階下の2年生に目撃されており、今日もコロッケ明日もコロッケということで、あだながついた。
少女の問いかけには何も返事はしなかった。いつものとおり基本的に緘黙を通した。このとき両者は素通りしたが、春子ちゃんには笑顔を向けたかもしれない。
階下の2年生のクラスには掃除の準備ができているかどうかをチェックする係としてよく行っていた。2年生は自ら掃除はしなかった。上の階の5年生が掃除をした。しかし、机を教室の後ろの方に寄せて掃除のための準備をするのは2年生だった。
チェックしに行くと、時間によっては生徒がまだたくさん残っていて、「コロッケが来た」と言って大騒ぎになることもあった。
しかし、こちらは春子ちゃんしか見えなかった。黒板に「よくできました」と書いて、急いで帰った。
エピソード23: 秘密
隣の隣の床屋はグーグルで見る限り今はもうないようだ。昔々の当時は、余計なおせっかいながら家族構成の点でなぞがあるように思われた。ツルちゃんは娘で、ツルちゃんの親はたぶん、この家のおばあちゃんで、店の裏の家に住んでいる人だった。床屋の男の先生はもしかしたらツルちゃんの夫なのかもしれない。しかし、二人の間に子どもはいないようだった。
「けいくんはね、実は貰い子なんだよ」と母があるとき言った。
「ああ、けいくんね」
なんとなくわかったようでわからない話がはじまった。床屋には子どもが生まれたという話はなく、あるときから急にけいくんという男の子ができて、その子とは遊びにくかった。
「ツルちゃんと先生の養子で、養護院から引き取られたんだ」と母。
「顔つきがちょっと日本人ばなれしているね」
「それはどうかわからないけど、実は前のうちに実のお兄さんがいるんだ。でも、そのことについては兄弟同士でわかっていないんだって」と母。
このお兄さんについては、ちらっと見たことがあった。店番おじさんの店の奥に確かにいたことがあった。
「でもさ、小学生だし、実の兄さんなら直感でわかるというか、とにかく見ればすぐにわかるんじゃない?」と母に訊いた。
「そうかもしれない。でも、意外と接点がないんだね。こんな近くなのに」
「親はどうしちゃったの?」
「破産して心中したそうだ」
「破産、心中?」
「破産はつぶれるっていうこと。心中はいっしょに死ぬことだよ」
「そういうことがあるんだ」
「うん、ある」
「子どもは生き延びたんだね?」
「そういうこと」
「かわいそうな話だね」
「そうだよ。でもツルちゃんはとってもいい子でね、自分に子どもが出来なくても、養子を取って育てたいっていうんだね」
「よくわからないけど」
それならそれでいいんじゃないと僕は思った。
「なかよくしてあげてね」
急になんてむずかしいと僕は思った。
エピソード24: 母の病気
当時の日本では水洗トイレを見つけるのは難しかった。人々は至るところで竪穴式便所を使っていた。原始的で野蛮なトイレながら、施設設置の費用もあまりかからず、簡単に作ることができ、ふん尿を発酵させて肥料として利用する農家もあり、しかも、その臭いから病気がわかるというメリットもあった。
父は小柄で痩せ型だったが、母はかなり大柄な女性だった。そのため、便所の汲み取り作業をする人が父に対して「今集めたものは甘酸っぱい匂いがしたから、家族の誰かが糖尿病にかかっているに違いない」と言うと、父はただちに母に医者に診てもらうよう勧めた。
青山先生の診察を受けてから母は米を食べなくなり、食パン1枚を何もつけずに食べるようになった。
「パンは飽きない?」トーストしたパンをバターもジャムもつけずに食べる母を見て、僕は尋ねた。
「まあね。でも、がまんしないとたいへんなことになるから」
「お医者さんによると、本当の糖尿病ではないけど、血糖値が通常よりもかなり高いって言ってたわ。 米を食べなくても死ぬことはない。 お米を食べるのをやめなさい」って。
米断ちパン食の日々が数か月続いた。1人だけ哀れだなぁという気持ちはした。
ところが、次第次第によくなっていき、汲み取り屋さんも何も言わず、医者もパン食を勧めなくなった日がついにはやってきた。病気が克服された。それは素晴らしいことだった。
後日、近所の医院でバイトをしている東京の医大病院の医局員の先生に、たまたまこの話をした。
「いや、パンもけっこう糖分が多いんですよ」と先生は言った。
調べたところ、ご飯茶碗1杯と食パン1枚はだいたい同じ程度で200Kカロリーくらいだが、ややパンのほうがカロリーが少ないようだった。
いずれにせよ、母からは、やらなければならないことは完全にやらなければならないということを教えられた。
エピソード25: 出会い
空がすばらしく青い秋の日の午後だった。街路樹の銀杏が昨日は花ざかりかと見紛がうかのようだったが、朝から無数の葉を落とし、歩道は真っ黄いの色一色に染めあがっていた。
爪先から運動靴を突っ込ませ、落ち葉の薄い堆積を蹴散らしながら、がさごそと音をたてつつ歩きつづけると、めざす消防署の建物まで5分とかからない。校門をあとにしたばかりなのに消防署は目と鼻の先のところにあった。ガソリンのよいにおいがただよっていて、消防車のおめかしが済んでいるのがわかる。あけはなしの一階の正面前からは、ポンプ車やはしご車が車体を真っ赤に光らせ、鼻づらを誇らしげに並べているのが見えた。
教室なら三つ四つは入りそうなほどの広い空間だった。コンクリートの床は黒く濡れていた。タイル張りの壁の一方にきっちりと巻かれたホースがフックから掛かっていて、その脇には長い柄のモップが立て掛けられている。人かげはなく、あたりは静かすぎるほど静かだった。
「入ってしまおうか」と思った。
足下に目を落とすと、建物のコンクリートの床と歩道の敷石の境をしきる、か細い排水溝に運動靴の爪先が掛かっていた。
たいへんなのは最初の一歩だけ。一歩踏み込めばいいんだ。足がうずうずした。
そのとき「コロッケー、コロッケー!」とあだ名で呼ぶ声がした。消防署のまむかいの市役所のあたりから声がし、通りを越えて一人芝居に夢中だったところまでまっすぐに届いた。
あの子たちだ。階下の2年生の女の子たちがまたたむろしている。あの子もいるのかな。
とたんに心の中でうろたえはじめた。溝の運動靴から目を上げ、胸をどきどきさせながら並木通りの向こうに顔を振り向けた。瞬間、目を瞑ったのは歩道の銀杏の金色がまぶしかったからだった。
たむろしていたのは全部で五、六人だろうか、めいめいがてんでんばらばらに何かしらして動くので、ひどく見分けにくい。手に持った袋からお菓子を取り出して食べる一人がいれば、くっついて話す二人もいる。うしろの方には庁舎の鉄柵に寄りかかって今にも歩道に腰を落としそうな子もいる。あっちこっちうろつく子もいる。まぶしさのために、ともすると全体が一つのかたまりにしか見えなくなる。どこかですでに遊んできた帰りなのか、それとも、これから学校の校庭に遊びにいくところなのかわからないが、この女の子たちはとにかく勝手気ままでのんびりしている。
いないのかなぁ? ふだん少女といっしょにいることの多い、ひょうきんそうな女の子の顔しかわからなかった。
ありえないことじゃないけれどもめったにないことだったので、にっこりしてしまった。最初に気づいたときには、まるで幻かなにかのようだった。ふいにふわーっと出てきた。あそこの電柱のかげから。
淡いピンクのセーターを着ていた。長い髪が風になぶられて舞う。何も見ていないかのようなまなざしが乱れ髪のかげに隠れた。近づいたとき、一瞬、視線をそらした。すれちがうときにはしっかり目を見た。思わずにっこりした。向こうもちらっとにっこりしたように見えた。
エピソード26: マーくん
マーくんは顔面に障害があった。マーくんの家に遊びに行ったある日、若くて美人のお母さんが上がってと言うので上がった。そのとき、お母さんがマーくんを膝の上に抱えて牛乳を飲ませ、続いてマーくんが泣いたのを目撃した。マーくんは飲んだ牛乳を鼻から戻した。
つまり、飲んだものを胃に収められず、鼻の方に逆流させた。となれば、もちろん辛く痛いに違いない。だから泣いた。お母さんはその様子を僕に見せたかったのかもしれない。
マーくんのお父さんはウルフのような恐い顔付きの人で、表に面した1階の座敷の片隅に置いた机が仕事場、そこにに座って何かを待つようだった。商売道具といえばダイヤル式の黒電話機1つのみで、それで一家を支えてきた。
マーくんの一家はおそらく関西のどこかから、この土地に新築した家に引っ越してきたのだと思う。マーくんには弟がいて、たかちゃんと一緒によく4人で遊んだ。お父さんの執務室の隣に神頼みのための小型の社があり、その屋根の上に登って竹製の杉の実でっぽうで「パンパン」と言いながら撃ち合いをしてもお父さんは怒らなかった。
家の前の路上にはよく相撲の土俵やビー玉はじき、ぺったんのサークルがろーせきでこしらえられて、子供たちがわいわいうるさくしたのにウルフ氏はそれでも怒らなかった。ビー玉はじきは他のメンバーのビー玉をサークルからはじき出して手に入れるゲーム、ぺったんはめんこと呼ばれる絵札を裏返して手に入れるゲームだった。
幸せな生活を送っているようだったが、一家はその後2度大きな不幸に見舞われた。1回目は税務署による差し押さえだった。たまたま目撃したのだが、ある日、係官がやって来て立派な箪笥や戸棚、テーブル、椅子などにぺたぺたと「差し押さえ」と表示された赤紙を貼り付け、トラックで運び去っていった。
2回目の出来事はもっとひどかった。胆石になったお母さんが入院して手術したのだが、手術が失敗に終わり急に亡くなったと聞かされた。
やがて一家はどこかに引っ越して行ってしまった。
エピソード27: チビのお墓
ある日、マーくんと、マーくんの幼稚園の友だちのみかちゃんといっしょに遊びに行くことになった。僕はずっと気になっていたチビに会いたかった。
「チビのお墓に行かないか」僕は二人に訊いた。
「チビってだーれ?」とマーくんが訊いた。
「だいぶ前に死んだうちのネコだよ」と僕は答えた。
「ふーん」とマーくんとみかちゃんが言った。
「お釜の中に落ちて溺れたんだ」
「えぇー」とマーくんとみかちゃん。
「かわいそうだったけど、父さんがお墓に埋めた」
「よくわかんないけどかわいそう」とみかちゃん。
「もう死んでいるんだ」とマーくん。
「行ってみよう」
みかちゃんの家の近くの洒落た低木の多い一画を通り過ぎ、僕たちは川原の土手の水位観測所のところに出た。
「土手を下ったまんなかへんにお墓がある。ついて来て」と僕は2人に言った。
土手を下っていくと、土がわずかに盛り上がっている所があり、たんぽぽが1つ咲いていた。
「ここだよ」と僕は言った。思い出すと自然に涙が出てきた。「チビはちっちゃい灰色のネコだった」。
ほかの二人の目からも大粒の涙が落ちた。
「もう行こうか」というマーくんの合図で僕たちは土手を上がった。
水位観測所の左の土手を上り、また下ると鉄条網があった。僕は飛び越えに失敗し、ふくらはぎに鉄針を差してしまった。
「痛てー!」とわめいた。
血がどくどく出た。これはたいへんだと思った。
みかちゃんがハンカチを出した。傷口に当てるように言った。痛かったから言われるとおりにした。
家に帰ってから母に説明した。
マーくんの友達のみかちゃんと言うと、母は誰のことかすぐにわかった。ハンカチは母が洗ってみかちゃんのお母さんに羊羹とともに返した。
エピソード28:納豆かまんじゅうか
冬が来ると、寒い早朝に納豆売りのおばさんが通りを売り歩いた。「なっと、なっとー」と声を上げながら西からやってきて東に向かう。
納豆は朝の食卓にいろどりを添える。したがって朝に売れる。江戸時代からずっと、家の中から通りに駆け出して「おばさん、ちょっと待って。納豆1つちょうだい」と買い求める人々がたくさんいた。
おばさんの納豆は我が家もよく買い求めた。経木の薄皮に包まれた、厚みのある三角のものを開くと、よくできた、張りのある大粒の納豆が並んでいる。箸で少量をすくい取り、茶碗の中のごはんに載せて辛子と青のりをまぶしてかき混ぜ、数滴醤油を垂らして一気に掻き込むとおいしい。
経木は、タケノコの「ひげっかわ」から進化した包装材で、その実体は薄い木の皮だが、きれいなため納豆にも和菓子にも似合う。
ある朝のこと、店先に入ってきたおばさんが店番の母と交渉した。
「このまんじゅう1個と納豆1個、交換してくれない?」
ショーケースの中のねぼけまんじゅうと納豆との物々交換をおばさんは提案した。両者比べると納豆のほうがはるかに栄養価が高く、まんじゅうは足元にも及ばないと思われるのだが、女性ならあんこの甘さのほうをとるかもしれない。
おばさんの申し出に母は即答した。
「いいですよ。交換ね」
朝の食卓に納豆が欲しかったのだ。
「よかった。おたくのまんじゅう、いつも横目で見ていたんだ」とおばさん。
「ねぼけまんじゅう1個10円、納豆1個10円、わかりやすいね。はいどうぞ」母は小皿に乗せて差し出した。
「私ね、実は新聞を着ているんだ」とおばさんが問わず語りに言った。「あったかいよ」
「へー、新聞紙をね」母は急遽お茶も差し出した。
「ありがとございます」おばさんは感激した。
「新聞紙は子供の弁当を包んだり、いろいろと役に立つんだよね。からだにはどうやって巻くんだい?」と母は訊いた。
「新聞はね、貧乏人のコートだよ。普通に肌着の下にくぐらせるんだ。巻くと言うより着る、身につけるんだね」
「なるほど。で、どれほどあったかいの?」
「そりゃもうポカポカ、歩くともっとあったまる。まんじゅうおいしい、お茶もおしかった。元気が出た」
「それはよかった。もしよかったら明日もまた来てね」
おばさんは通りに出て納豆売りに戻った。「なっと、なっとー」の声がちょっと変わったようだった。
母から受け取ったのは、ずっしりとした経木包みだった。
「おばさん、チラチラ栗まんのほうを見てたよ」
「そうか。でも納豆のほうがおいしいよね」
「そうそう、まんじゅうより納豆」と母は同意した。エピソード29:驚いて全力疾走
夏の夕暮れ時、弟の孝ちゃんといっしょに大通りの夜店に出かけることになった。夜店はだいたい3丁目の郵便局前から通り2丁目の方に向かって、最もにぎやかで明るい通りの両側の歩道に出た。屋台で焼きそばやたこ焼き、お好み焼きを提供する定番の食べ物の店、冷たいアイスクリームやラムネを売る店、射的や輪投げ、金魚すくいのゲームの店、水鉄砲やボンボンを売る店などが所狭しと立ち並び、大勢の人々が夕涼みを兼ねて市内の至るところからやってくる。照明用のアセチレンガスの独特な匂いがただよい、いらっしゃい、いらっしゃいのかけ声が響く。
弟の孝ちゃんと僕は金魚すくいをやる予定だった。薄い紙を張ったおもちゃのすくいで金魚をすくい取ると、獲物としてもらえる。紙は破れやすく、たくさんすくうのは難しい。
僕たちはそれぞれ10円玉を用意してポケットに入れていた。ペコちゃんの不二家と寿司屋の亀鶴がある角を左折して、さて大通りに向かおうとしたすぐのところで夕闇の中から不意に男の大人が1人ぬっと姿を現した。
その容貌を見たとたん、孝ちゃんも僕もびっくりして「わー」と叫び、Uターンして全力疾走、なんとか逃げ帰った。あとを追いかけられているのではないかと思うと背筋がぞっとするほど怖かった。
二人で示し合わせてそうなったわけではなかった。両方がそれぞれ自発的に逃げたのだ。だからほんもののホラーだったことに間違いはない。
「どうしたんだ、二人とも?」店番していて出迎えた父があきれて訊いた。
「おばけが.... おばけ...」と心臓をドキドキさせ、息を切らせながらやっと答えた。
とにかく家の奥まで入り込んだ。
「いったいどういう人だったのだろう?」少し落ち着いてから考えた。
目が血走っていたわけでもない。不気味な笑みを浮かべていたわけでもない。威嚇する表情だったわけでもない。ただただ、雰囲気が恐怖をもたらすものだったのだ。たとえばフランケンシュタインの怪物とか、そこはかとなく怖がらせる、そういう感じの人は実際にいるのだなと思った。
「行ったと思ったら戻ってきた。いったい何があったんだ?」のちになって父親が訊いた。
「あのね、角を曲がったところで男の人に出会ったんだ。顔つきを見て逃げた」
「何かされたわけじゃないんだね」
「うん。でも孝ちゃんも同時に走り出したんだから、かなり怖かった」
「夜店はやめだね?」
「うん、もういい」
「夜は恐いよ」と孝ちゃんも言った。
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